京都南ロータリークラブ
 
 
 
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 月 報
7月号表紙 7月号
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コラム「あのころ、どんなころ 1950年~1954年」
 1950年11月18日京都駅が全焼するという悲しい出来事があった。一方、1950年(昭和25)に勃発した朝鮮戦争に伴って日本にもたらされた特需によって、日本経済は好況に転じ,その後成長の軌道に乗り、戦後からの復興が一気に加速したころであった。1953年2月1日にNHKが、8月28日には、日本テレビ放送網(NTV)がテレビの本放送を開始した。1953年(昭和28年)に大ヒットした映画『君の名は』に出てくるヒロイ、岸惠子演じる真知子が、ストールを頭からかぶるように巻いていたことから、それをまねた若い女性が街にあふれる「真知子巻き」ブームが起こりました。1954年02月01日には、マリリン・モンローが夫で大リーガーのジョー・ディマジオ新婚旅行で来日し、大変話題になった。
(c)共同通信社
1951年08月27日
戦後初の国内便の再開で日本航空の1番機が羽田空港から試験フライト


8月号表紙 7月号
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コラム「あのころ、どんなころ 1955年~1959年」
三種の神器
1956年(昭和31年)の経済白書が「もはや戦後ではない」と明記し戦後復興の終了を宣言した神武景気以降、輸出拡大で日本経済が急成長した時期である。白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の家電3品目が『三種の神器』として喧伝され、家庭では電化製品の普及が進んだ。
これらのうち最も早く普及したのは白黒テレビで、逆に一番遅かったのは冷蔵庫である。当初テレビは非常に高価であったため、街頭テレビやキャラバン隊を通じて宣伝され、電器店の店頭のみならず銭湯や大型飲食店など集客能力の高い店舗から先に導入された。
1957年3月14日 京都南ロータリークラブでは、創立3周年記念例会と創立満3周年記念祝賀会が京都ステーションホテルで開催される。また、1959年3月19日には創立5周年記念例会が開催された。


9月号表紙 9月号
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コラム「あのころ、どんなころ1960~1964年」

1962年5月28日、日本で初めて第52回国際ロータリー東京大会が開催。1964年3月19日には、創立10周年記念式典・晩餐会が京都ステーションホテルで開催された。

日本経済は、1955年から1970年にかけて、世界に類例を見ない高度成長を遂げた。この15年間、他の先進諸国の年平均名目経済成長率は6~10%であったが、日本のそれは15%に達した。こうした経済成長に伴う確実な所得の上昇は、個人消費の急速な拡大をもたらした。1964年の東京オリンピックを契機に高速道路が整備され、日本はどんどん“狭く”なり、人や物を運ぶ自動車が、交通の主役となったのです。そして、我が家にも自家用車がやってきます。サラリーマンにも手が届く、マイカー時代が到来した。

車でいっぱいの神奈川県真鶴町・真鶴半島先端の駐車場。行楽地の駐車場にはマイカーがひしめくようになった。(1964年5月撮影)
(c)朝日新聞社


10月号表紙 9月号
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コラム「あのころ、どんなころ1965~1969年」

1965年ころから、高度経済成長の中、新3種の神器(カラーテレビ・カー・クーラー)が豊かさの象徴として憧れの生活必需品となりだした。1969年3月3月6日は、京都南ロータリークラブ創立15周年記念例会が執り行われた。

一方、ベトナム戦争が激化の一途をたどり、また、1970年で期限の切れる日米安全保障条約の自動延長を阻止・廃棄を目指す動きが左派陣営で起きていた。これに伴い学生によるベトナム反戦運動・第二次反安保闘争が活発化した。それと時を同じくして、高度経済成長の中、全国の国公立・私立大学においてはベビーブーム世代が大量に入学する一方で、ときに権威主義的で旧態依然とした大学運営がみられた。これに対して学生側は授業料値上げ反対・学園民主化などを求め、各大学で結成された全共闘や、それに呼応した新左翼の学生が闘争を展開する大学紛争(大学闘争)が起こった。
学園紛争は全国に波及し、最盛期では東京都内だけで55の大学がバリケード封鎖に入り社会問題に発展していった。

東大紛争 ガス弾の白煙に包まれる安田講堂
(c)kyodonews


11月号表紙 9月号
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コラム「あのころ、どんなころ1970~1974年」

1970年1月30日 台北南RCと姉妹クラブ締結、同年10月20日には日本ロータリー誕生50周年。そして1974年3月14日 京都国際会館Aホールにて、京都南ロータリークラブ創立20周年記念特別例会が開催されました。京都南ロータリークラブにとっても大きな出来事があった1970年から1974年。

そして我が国においての大きな出来事のひとつは日中国交正常化。 1972年9月29日、田中角栄首相と中国の周恩来首相が北京で日中共同声明に調印し、両国は「恒久的な平和友好関係を確立する」ことに合意した。日本はそれまで国交があった台湾と断交し、中国は日本に対する戦争賠償の請求を放棄した。合意までには、田中首相の発言などをめぐり、日中双方がもめる場面もあったが、27日夜、毛沢東主席は田中首相に「けんかは済みましたか」とユーモアを交えて語りかけた。28日、両首相は共同声明の内容を確認、翌日の調印となった。

日中国交樹立(国交回復)、田中角栄首相訪中 日中共同声明調印式
(c)朝日新聞社


12月号表紙 9月号
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コラム「あのころ、どんなころ1975~1979年」

1975年9月11日 国際ロータリー第365地区千 宗室ガバナー公式訪問例会が、京都タワーホテルにて行われた。1979年3月11日には、創立25周年記念式典が京都国際会館Aホールにて開催されました。京都南ロータリークラブにそのような出来事があった1975年から1979年。

1977年9月3日 王貞治氏がプロ野球で本塁打世界記録(756本)を達成。 国民栄誉賞が、1977年に定められた国民栄誉賞表彰規定に基づいて創設され、その目的は「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったものについて、その栄誉を讃えること」と規定され、プロ野球で本塁打世界記録を達成した王貞治氏をたたえるために創設したのが始まりです。2018年7月2日には、平昌五輪のフィギュアスケート男子シングルで2連覇を達成した羽生結弦選手に、国民栄誉賞が授与され、羽生選手は歴代最年少の23歳での受賞となった。現在までに、羽生選手も含めてこれまで26人1団体が受賞されています。

(c)共同通信社
巨人王選手、756号世界新記録 1977年9月3日、後楽園球場


1月号表紙 9月号
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コラム「あのころ、どんなころ1980~1984年」

1980年2月21日 ロータリー創立75周年記念例会が行われました。また、1984年3月29日 都ホテルにて、京都南ロータリークラブ創立30周年記念例会・祝宴が盛大に開催をされました。そんなロータリーにとっても節目であった1980年~1984年、東北新幹線が開業しました。 1970年に成立した全国新幹線鉄道整備法により,1971年11月上野―盛岡間着工,1982年6月23日大宮―盛岡間が開業しました。そして、1985年3月には上野―大宮間,1991年6月には東京―上野間,2002年12月に盛岡―八戸間が開業し、2010年12月の八戸―新青森間の開業をもって全線が開業となりました。

(c)共同通信社
東北新幹線の大宮~盛岡間開業、大宮駅を出発する「やまびこ11号」


2月号表紙 9月号
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コラム「あのころ、どんなころ1985~1989年」

1988年7月1日 千宗室氏(京都RC 現 千玄室)がRI理事に就任されました。 1989年3月16日には京都南ロータリークラブ創立35周年記念例会・記念懇親会が京都グランドホテル(現 リーガロイヤルホテル京都)で開催されました。 当クラブの会員数も1985年142名から1989年には178名となり、活気に満ちた1985年~1989年。 また、1986年5月8日には、ダイアナ妃が初来日されました。オープンカーでのパレードでは、沿道に大勢の人が集まり、歓声を送りました。ダイアナ妃が来日に合わせて準備したのは、日の丸をイメージした水玉のドレスでした。白地にあざやかな赤い水玉のドレスに、赤い帽子。京都の修学院離宮の庭園を散策される彼女の様子は、日本人の女性を魅了しました。

(c)kyodonews
チャールズ英皇太子とダイアナ妃が浩宮さまの案内で修学院離宮を見学


3月号表紙 9月号
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コラム「あのころ、どんなころ1990~1994年」

1990年5月22日 京都南ロータリークラブは27名の新入会員を迎え、会員数179名となり、日本で11番目の大規模RCとなりました。 1994年3月10日には京都グランドホテル(現:リーガロイヤルホテル京都)にて創立40周年記念式典・祝宴が開催されました。   また、1993年6月9日に日本の皇居にある宮中三殿において、皇太子徳仁親王と小和田雅子様の結婚の儀が執り行われました。朝見の儀の後のパレードは、約30分間で、その沿道を約20万人の人々が日の丸の小旗を手に持って埋め尽くし、夫妻に祝福の言葉をかけたそうで、中には沿道にある学習院初等科の生徒たちも含まれていました。この間、夫妻は笑顔で沿道に手を振り続けられたそうです。

(c)kyodonews
沿道の人たちににこやかに手を振られる皇太子さまと雅子さま


4月号表紙 9月号
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コラム「あのころ、どんなころ1995~1999年」

1996年 5月8日 青森ロータリークラブと友好クラブ締結調印式が行われました。 1999年3月11日 京都南ロータリークラブ創立45周年記念式典・祝宴が開催され、また、青森ロータリークラブとの姉妹クラブ締結調印式も行われました。当クラブの活動もどんどん活発になってきた1995年から1999年。 世界に目を向けると、1998年12月31日、決済通貨ユーロが導入され、当時のユーロ参加予定国のそれぞれの通貨とユーロとの為替レートが固定され、1999年1月1日、ユーロがそれらの国において電子的決済通貨となった。 このときユーロは欧州通貨単位に対して 1:1 で置き換えられました。

写真提供:朝日新聞社
特大のシャンパンでユーロ誕生を祝う各国の蔵相ら。中央はドイセンベルク委員長
1998年12月31日


5月号表紙 9月号
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コラム「あのころ、どんなころ2000~2004年」

2001年5月17日 小田原ロータリークラブと友好クラブ締結調印式がおこなわれました。 2003年12月12日~17日には京都南ロータリークラブ50周ポリオミッションがおこなわれ、翌2004年3月11日には創立50周年記念式典・祝宴が開催されました。そんな京都南ロータリークラブにとって節目の2000年~2004年 2001年12月1日には、皇太子徳仁親王(当時)と同妃雅子様(当時)の間に、第一女子がお生まれになり、天皇から愛子と命名され、敬宮の称号を受けられた。

(c)朝日新聞社
皇太子さまに付き添われ、宮内庁病院を退院する雅子さまと敬宮愛子さま1998年12月31日


6月号表紙 9月号
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コラム「あのころ、どんなころ2005~2009年」

2005年シカゴでロータリー創立100 周年記念大会が開催。 2006年ロータリー財団の「未来の夢計画」が始動。 2007年には、ポリオ撲滅へのビル・ゲイツ財団寄付に対応してロータリー1 億ドルチャレンジグラン(翌年より2 億ドルを目標として2012 年6 月末まで継続)が始まりました。また、RI 長期計画(2007-10)発表。「国際ロータリーの使命」が改正されました。ロータリーにとっても大きな転換期であった2005年~2009年。 日本では、環境省の主導のもと、ネクタイや上着をなるべく着用せず、夏季に摂氏28度以上の室温に対応できる軽装の服装を着用するように呼びかけた「クール・ビズ」(COOL BIZ)が始まりました。「クール・ビズ」という表現は、「涼しい」や「格好いい」という意味のクール(英語: cool)と、仕事や職業の意味を表すビジネス(英語: business)の短縮形ビズ(BIZ)を併せたもので、2005年の新語・流行語大賞のトップテンにも選定されました。

(C)朝日新聞
夏の軽装化(愛称・クールビズ)が始まった2005年6月1日、かりゆしを着て官邸に向かう小泉純一郎首相


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