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ジャカードはコンピュータのルーツ(月報7月号)
ジャカードの話
ジャカードは機の上部に取り付けられた機械で、1806年フランスにジャカールという人が発明した。
ジャカードの主要部は横針と堅針(たつばり)によって成り立っている。シリンダーで紋紙を横針に押しつけると、紋紙の穿孔部(穴)のみに横針が通り、連動している堅針が上がる。これにつり下げた経糸の通った綜統も上がり経が開口する。「紋の口数」とか「○○口のジャカード」という「口数」とはこの針の数を言ったものである。
ところでジャカードがコンピュータのルーツであるというのは、コンピュータ入門書の歴史の項に出てくるのだか、パンチカード(紋紙)によって予め与えられた文様を織りなす制御方式を入力するという方法はその後PCS(Punch Card System)統計機械を生み出す原動力になり、このPCSがコンピュータ発明へとつながっていったからである。
原稿提供 河合康幸
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製造法の昔と今(月報8月号)
私が中学に上がる頃まで、当社の八ッ橋は「焼き子さん」と呼ばれる女性の手により焼かれていました。平均的な焼き子さんで、一日四千枚位の生産量だったそうです。現在新光悦工場の生産能力は日産22万枚で、しかも当時よりソフトで美味しい八ッ橋が作られています。さらに原材料の質も向上し、仕込みの工程も大幅に改良されています。八橋検校さんがご覧になったら目を見張られることでしょう。(もっとも検校さんは目が不自由でした。)
八ッ橋の原料は、米粉、砂糖、桂皮末(ニッキ)、胡麻、きな粉、そして水です。全て昔変わらぬ自然食品のみ使用されています。基本は変えずに進化させる。それが当社の基本姿勢です。
原稿提供 津田純一
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羅城門跡と西寺跡(月報9月号)
羅城門は平安京、朱雀大路の南端に設けられており、洛中洛外の境の門でした。羅城門の東には東寺、西には西寺がおかれ都を守護していました。天元3年(980)に再度倒壊してからは再建されることもなく、荒廃したまま放置され、さまざまな奇譚や伝説を生み、物語の舞台になってきました。九条通り国道口から西に約250メートル、小さな公園に石碑を残すのみです。
西寺は九条七本松を上がったところの唐橋小学校とその北の西寺公園の比較的大きな区域が史跡西寺跡に指定されています。公園の小さな丘の上には西寺あとの石碑とともに、往時の礎石を見ることができます。
原稿提供 中島喜代一
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繊維のなりたち(月報10月号)
人類最古の衣料繊維は、エジプトで紀元前頃4000年に使用されていた「麻」から始まると言われています。その後紀元前3000年前頃にインドで「綿」メソポタミヤで「ウール」に続き、紀元前2500年頃には中国で蚕から「絹」が使用され、これらの天然繊維は長く人類の発展と共に歩んできました。
また、衣料以外で現在多方面に使用されている合成繊維は、1935年に米国デュポン社が開発した、ナイロンに始まり、ポリエステル、アクリルビニロン、レーヨン、等々はそれらの特性を生かし、工業用、産業資材として皆様の目に付かないところでも、おおいに活躍しています。
皆様の生活の中で、衣料以外の繊維がどのように使われているか、まわりの繊維を一度見直してみるのも、おもしろいと思います。
原稿提供 鈴木康次
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(月報11月号)
自分の家業は百年を超えて京都の人々の食卓にお漬物とお味噌を御提供させていただいております。京都の長い歴史の中ではまだまだではあるのですが、その歴史をのぞかせるものの一つが写真の柱です。以前物置用の蔵として使用していた店裏のスペースを大改造し、二年前に和食処を開設いたしまいた。蔵を改装した際に何か古いものを再活用できないかということで今まで埃をかぶり、経年劣化した柱の表面を塗装し直して蔵の門と共に空間デザインに溶け込むようにいたしました。近年進んでいるこのようなお店や住居の町屋再生は古きものを再活用する取り組み。若年ながら京都人として少しでもこのような歴史を守り、生かせることができればと思います。
原稿提供 田辺宗右
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お歯黒(鉄漿付け)(月報12月号)
『源氏物語』に若紫のお歯黒を付けた姿が一層美しいと、源氏が眺めている場面があります。当時の高貴な女性は、10歳頃になると歯を黒く染めました。お歯黒は江戸時代になると、町人の既婚女性の間にも広まりましたが、明治初頭の西洋文化の到来とともに廃れ、戦後に絶滅しました。今でも京都では、歌舞伎の女形や島原の太夫、それに衿替えの時期の舞妓に会うと、お歯黒を見ることができます。写真はお歯黒道具です。「お歯黒の歯はむし歯にかかりにくい」という俗説は、現代医学のもとで証明され、歯ぐきを引き締めることもわかりました。この効能を利用した薬剤が、現在、多くの歯科医院で使われています。まさに、健康に良い化粧ですね。
原稿提供 東智
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焙煎機(月報1月号)
珈琲の木は白い花を咲かせ、色と匂いはジャスミンに似ています。その果実はコーヒーチェリーと呼ばれ、中には黄緑色した2粒の種子が向かい合わせに入っており、これが珈琲の生豆です。この豆を焙煎することにより、色は見慣れた珈琲ブラウンとなり、初めて珈琲の味と香りが現れます。
この写真は、19世紀後半のヨーロッパで作られた、個人が楽しむ卓上焙煎機です。ゼンマイで回転するドラムの中の珈琲豆を、アルコールランプで熱する仕組みになっています。
ゆっくりと流れる時間に、珈琲豆の弾ける音と香りが漂い、何かオシャレな文化の香りも漂って来そうです。
原稿提供 小川秀明
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通信販売の先駆け(月報2月号)
本年タキイ種苗(株)は、創業175周年を迎え、通信販売は105年目に成ります。種苗業の始まりは1835年(天保6年)野菜栽培技術に優れた初代瀧井治三郎が特産野菜や皇居への献上野菜を栽培して評判になり、その高品質種子の分譲を行なったことが始まりです。明治維新によって殖産興業政策が遂行されてゆく中で政治・経済・社会の近代化が進み、そうした時代の明治38年7月に石版刷りによるカタログを発行、我が国で初めての種苗の通信販売開始に踏み切り、園芸種苗商品の通信販売の先駆けと成った。大正9年(1920)経営の法人組織化に伴いカタログの頁数、版型も大幅に拡大し、内容も高品質と西洋野菜や草花の珍しい品種を加えて充実し、大正初期には発行部数が120万部を超えて現在の通信販売部門の礎と成った。
原稿提供 瀧井浩貴
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通信の発展(月報3月号)
電話は、1890年(明治20年)に東京・横浜間で開通をしました。それから、120年が経ちました。その間大きな発展を遂げ、とても便利なものとなりました。
特にこの25年の変化はすごいものがあります。1984年(昭和59年)は電電公社最後の年、東京−大阪間の通話料金は3分400円【現在はひかり電話なら全国どこでも8円】、INSモデル実験が始まりましたが、この時、通信速度は64kbpsでした。【いまなら各家庭まで光ファイバで100Mbps。なんと1560倍】
これからも、ICT(情報通信技術)が発展し、さらに社会・経済に大きな影響を与えていくことでしょう。
原稿提供 安田 豊
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旅行業のあけぼの(月報4月号)
イギリスのプロテスタントの伝道師であるトーマスクックが、禁酒運動の大会に信徒を数多く送り込むために、列車を団体で予約することにより安価に行けることを考え出したのが世界最初の旅行会社トーマスクックの始まりと言われています。
日本で最初の旅行斡旋は、明治38年、弊社創業者の南新助が高野山参詣並びに伊勢神宮参拝を列車による団体旅行で実施したのが始まりと言われています。拡声器を持ち込んでの社内放送、列車の中で旅の見どころをガリ版刷りで配布、暑い時には西瓜やカチ割り、寒い時には粕汁をお出しするなど、道中も含んで旅を楽しんでもらうという、ひと工夫が、当時よりされていたと言われております。
原稿提供 日本旅行100年史より 平松則彦
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老舗の家訓(月報5月号)
当家の家訓は、「伝統を重んじそれを継承しまたそれに縛られることなく家業に励む事」です。まさに温故知新そのままです。しかし、それに縛られることなくという文句があります。これは、基本的な古い良いことを踏まえたうえでそれに凝り固まらないように柔軟な対応ができるようにと先代から教えられました。
時代の流れで、味もその時代に合わせていかなければいけないと私は考えています。代々伝わる製法はそのままで、原料の配合を少しづつ変えたり、又戻したりしています。そして、季節によっても配合を変え火の入れ方も変わります。職人としての誇りを持って、家業に日々励んでいきたいと思います。
原稿提供 原 悟
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笊(月報6月号)
左の写真は、うなぎのざるですが、昔は竹で編んだ物でした。
今現在プラスチックで出来ています、でも昔から形の変化はありません。
各家庭にあるざるを思い出して下さい。昔は竹で編んだざるが一般的でした。
今は、金とかプラスチックが一般的ですが、形はあまり変わってないのでは無いでしょうか。
昔の人の知恵がいまだに受け継がれている物の一つだと思います。
原稿提供 藤居久士
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