京都南ロータリークラブ
 
 
 
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想い出を照らす
No.01 上西阿沙
No.01 長寿に恵まれたのは
(1)子供11人育てた母(93才)のDNAに恵まれた
(2)戦争体験を含め何度も生かされた運勢
(3)老齢になっても青春の若さと情熱を持った為と思います。
写真は76年前19才の旧制高校時代に、下駄履きで大文字に登り山上から京都の街を睥睨して、洋々たる未来に夢を馳せて天空を仰視している姿です。

No.02 向井博一
No.02 年を重ねましたが今から60年前の正月二日、親爺の酒友達、大徳寺の和尚来宅。二人で正月の酒盛りの最中、和尚 小生をみて坊ちゃんにお嫁さんをという事ですぐに行こうと家内の里に乗り込み、丁度家内とおふくろさん二人の様子。和尚がこのお嬢さんよくみておけとの事 3月に見合い、5月に結婚の式をあげました。
No.03 内田昌一
No.03 1977年6月、私の46才の誕生日にフロリダ州の州都タラハシーで知事に会った。
知事から「誕生日おめでとう」とお祝をいただき、そして私をフロリダ州の名誉市民(Honorary Citizen)にと云って下さった。
その後、メキシコ湾のボカグランデでグレープフルーツの生産者にターポン(ニシン科の一種)を釣りに連れて行ってもらった。
その時に釣ったターポンは、まれに見る大物だった。その後のエピソードは後日に…。

No.04 河内誠一
No.04 千日回峰行を2度満行された「藤波源信阿闍梨師」から直接講話を賜った後の私達家族「息子、孫」の祈念写真です。千日回峰行とは数ある仏教修行の中でも平安期に始まった荒行中の荒行で、比叡山の山中や京都市内を7年がかりで千日間、計約4万キロ地球一周分を歩く荒行。1300年で成功者は2人だけ。心身ともに生まれ変わった有意な人生のひとときでした。合掌
No.05 小竹 治
No.05 30年余り仕事、仕事で家の事を全て家内任せで過ごしてきました。「結婚30年を感謝年」としてオリエントエクスプレスにてギリシャ、ルーマニヤ、オーストリア、スイス、フランスを巡る旅をプレゼントしました。写真はパリでノートルダム寺院を背景に家内ととのスナップです。
No.06 小西清茂
No.06 立命館大学大学院で法学修士を頂けた年に大西芳雄教授の読売テレビで公開ゼミナールの録画風景です。この年の12月に結婚式を控え一番充実した青春の一コマです。テレビに出たことは後にも先にも初めで終わりです。
No.07 西村信行
No.07 49年前京産大に入学。当時導入間もない国産で世界最速大型コンピュータとの出会いは、京大へのコンピュータ導入をご研究され、半ば強引に京産大へ引っ張られた宮野教授との出会いに始まる。師のおかげで京大清野研究所や㈱竹中工務店電算センターの方々と産学共同の文字通り研究開発に没頭、充実した青春時代であった。
No.08 佐野友泰
No.08 2000年6月、南米ブエノスアイレスでのRC世界大会に出席の折、リオ、イグアスの滝、クスコ、そしてマチュピチュ観光をした時の写真です。青森RCの大柳会員も参加され大変楽しい思い出深い旅行でした。
No.09 田中俊介
No.09 お祭り好き
昭和33年10月20日、地元の氏神様(城南宮様)の秋のお祭りの御輿巡行に行く前の自宅前の写真です。若い時からお祭り好きが京都南RCに入会させて頂いて以降、今日迄続いている様です。

No.10 木下右門
No.10 1985年の時代祭
青年会議所時代三度時代祭に参加させていただきましたが、一度目は七卿落ち・二度目は久坂玄瑞、三度目に一番やりたかった近衛忠煕をやらせていただきました。小生には御所から平安神宮まで楽しい思い出の一つです。
No.11 佐野剛一
No.11 私は40年前に、美濃白川町の花崗斑岩が石薬・麦飯石であると同定し、原色岩石図鑑で解説された日本地学研究会館の益富壽之助博士に出会いました。写真は26年前、産地視察時に先生と山峡入口にて。このご縁を今後も大切にしたいと思っています。
No.12 山口 巖
No.12 昭和52年4月3日京都観世会館での能「経正」の初舞台、20歳の時、父のすすめで謡曲を習ったのですがその時からお前が能を舞う時は私が能の装束を織ってやるからと言っていた通り父が製織した衣裳を着て舞いました。
No.13 澤野茂治
No.13 代継後初の上棟式
1986年先代より代替わりをして初の棟梁として成就院本堂新築に於ける上棟式を引立烏帽子に鎌倉直垂東襖の出立にて執り行った絵であります。重責に緊張し放しの面相です。
No.14 村田純一
No.14 満50才
会社創立50周年を、社員全員で宝ヶ池を借り切って、盛大に祝いました。私も50才で、父を亡くして15年、会社もやっと軌道に乗り、ホッとした30年前であります。あの頃がなつかしい。

No.15 中村恵行
No.15 京都南ロータリークラブ60周年の会長(2013〜14年度)を務めさせていただき、皆様のご支援のお陰で、成功裏に納めさせて頂きました。改めて御礼申し上げます。又、家内との共同作業も多くあり、40年の夫婦の絆が深まり、感謝申し上げます。
No.16 那須信孝
No.16 この写真は1981年3月8日、NHKの『宗教の時間』に京大総長平澤興先生(パストガバナー)と『真実の生命』のタイトルで対談した時の映像である。まだ50代の若いころであり、先生は80代の老境、特に先生は、既成概念にとらわれない生の感情を尊ばれるので、原稿なしの応答であったが、私にとって僧侶としての道の転機になった一会であった。
No.17 北尾哲郎
No.19 母と三兄弟
昭和28年、花園の自宅で母と私達兄弟を父が写したもので、今では貴重な写真です。私は小学校一年の時に六年生の長兄を亡くしています。今も私の側にその兄がいると思うと、どんな時でも頑張ることができます。そんな思い出の一枚。
No.18 松田 令
No.18 洋上の迷宮
民主府政から林田府政に変わり、中国へ第1回近畿青年洋上大学が開校された。京都JCに所属しており、要請を受けリーダーと成り、各府県から集まった400名の男女学生を預かることになった。偶然が重なり自分の班にいた彼女と2年半の後、結婚する羽目になった。
No.19 阿原道正
No.20 昔を今になすよしもがな
フラッシュバルブ(閃光電球)がまだない時代、マグネシウムを発火させて、ボンッ。昭和25年、私が15歳の頃。押小路柳馬場の大江能楽堂で、「鶴亀」のツルを舞っているところを一枚。うしろの皇帝は先代の大江又三郎師です。
No.20 長谷川佐喜男
No.19 日本JCグローバルプロジェクト
平成2年、日本経済バブル絶頂期に「世界中に植樹をして、地球をかんばつから守る」という目的でニューヨークでイベントの後、北米大陸をバンクーバーまでトヨタのランクルで横断した夢の2週間。初めて経験した想い出深い左ハンドルの旅でした。
No.21 橋本和良
No.21 父との最後の想い出
それまで何回誘っても来なかった父親が亡くなる2か月前に急に弊社のフィリピン工場に行くと言い出しました。見学して「こんなに立派にやっているとは思わなかった。もっと早く来ればよかった。」と生まれて初めて誉めてくれました。
No.22 長谷川茂
No.22 昭和52年4月に結婚、新婚旅行はニューカレドニアでした。其の時、50年後にまたこの場所に来る約束を妻と致しました。そして今年40周年を迎えます。10年早めて行く予定です。
No.23 片岡宏二
No.23 私は1984(昭和59)年に、社団法人京都工業会の若手経営者による欧州産業視察団の団長としてベルギー、ドイツ、スイス、英国、パリ、ベルサイユを訪問しました。写真はフランスのベルサイユ宮殿を訪問した時にベルサイユ市長に歓迎を受けた時の写真です。夜はベルサイユ宮殿にてコンサートを開いて歓迎下さいました。
No.24 千振和雄
No.24 ピカピカの一年生
小学校に入学する直前の記念写真です。遠い遠い昔の写真ですが、昨年久々に田舎へ帰ったときに見つけました。ピカピカからピカピカへ… だいぶ意味が変わってきました。
No.25 小川秀明
No.25 11年前の2006年9月、50歳の誕生日を祝っていただいた写真です。私が幹事を務めさせていただいた時の、事務局と幹事団です。個性豊かな当時の事務局員2人と優秀な特技を持った副幹事4人に囲まれて幸せいっぱいです。
No.26 西脇眞次
No.26 大学時代の3年間、京都東ローターアクトクラブに在籍。当時、京都市内には外大・京都・北・南・西南・山科の7クラブがあり、どのクラブも会員数が多く活気に満ちていました。写真は、30年前にシルクホールでチャリティイベントを主催した時のものです。
No.27 大宮 正
No.27 祖父庫吉の欧米視察見送り
昭和29年、羽田から欧米視察に出かける祖父庫吉を親戚総出で見送る(中央手前が当時4歳の小生)。当時は海外へ出かけることは珍しく、記録によると、家族、社員、取引先など百数十人の見送り、各新聞社の取材、十数人のカメラマンの撮影を受けたとある。

No.28 今枝徳蔵
No.28 出羽海理事長(元横綱佐田山)と百名山を目指していた当時
私の人生は相撲によって決まりました。体で理屈を覚え、体で行動する事、出羽海理事長と相撲のお蔭で出会い、京都場所のお世話をし、その姿を見た永末英一さんに政治の世界に入れられ、8期32年、梅小路水族館を最大の仕事として残せました。

No.29 吉田典生
No.29 家族
この写真は私の書斎の壁にかかっている写真です。今から25年前の夏休みに三方五湖で撮った写真です。長女はフランス人哲学者と結婚し大学で教鞭をとっています、次女は保険の仕事と好きな音楽に明け暮れ、長男は昨年漸く私の会社に戻って来ました。皆一人前に育ってくれて感謝しています。

No.30 米澤 孝
No.30 同志社大学入学時から軽音楽部ウェスタンバンドのヴォーカルを担当し、卒業後もずっと続けています。京都南ロータリークラブでは1993年と2006年の年末会員家族懇親会に出演させて頂きました。2000年からはリーガロイヤルホテル主催のウェスタンカーニバルに17年連続出演し、今年も開催予定です。
No.31 広瀬 茂
No.31 初の海外旅行
46年前の夏に西ヨーロッパを約4ヶ月の一人旅、ガイドブックも無い時代にミュシュランが頼りでした。移動はほとんど電車で宿泊はB&Bで一ドルが360円。写真はミラノ北のモンツァでのF1イタリアGP観戦です。

No.32 田中範彦
No.32 小生38歳の時、畑であった土地に8階建てマンションを建設した。南区で純個人が建てた第1号で屋上階に三角点を設置、地下鉄建設に貢献したと思っている。自ら杭打ちに参加した事が懐かしく思い出されます。
No.33 藤田安彦
No.33 初めての海外旅行
1976年(昭和51年)大学3年生の時、ハワイへスーツ姿で行ってしまいました。観光中、浮いてました。あれから40年、海外へはかなり出かける機会がありますので、それなりの服装で対応しております。

No.34 原  悟
No.34 十四代目
平成15年1月22日私が39歳の時、待望の長男が生まれました。肩車が好きでよく笑う子でした。今では中学二年生になり、背が私より高くなりました。これからの成長を期待しています。

No.35 天野 亮
No.35 4歳の時、母親と共に行った幼稚園の面接時に撮っていただいた写真です。細かなことはすっかり忘れてしまいましたが、子供ながらにとても緊張してたことが懐かしく想い出されます。
No.36 木下博史
No.36 1985年創業した当時27歳の写真、第一号店は上賀茂公園の北側マンションの1階、兎に角若かった。毎日毎日が必死でしたが、今となってはいい想い出がいっぱい詰ったお店、出会えた皆様に感謝です。因みに、抱えてる女の子は友人の子供です。
No.37 中村俊次
No.37 欧州食品見本市と新婚旅行を兼ねて行った時のパリでの一コマです。当時、1ドル約300円位でした。また飛行場では当時話題の音速旅客機コンコルドを見ました。
No.38 清水稔章
No.38 40歳の時に始めたゴルフですが、かれこれ33年になります。ベストスコアは78が2回でただけで今では108が目標です。上記の写真はハンディキャップが12~13の頃によくアメリカにゴルフに行っていた時の写真です。コースはペブルビーチのショートホールです。
No.39 大山孜郎
No.39 大学病院時代
卒業した京都府立医大で耳鼻咽喉科教室の助手をしていた、1975年の写真です。お世話になった先輩が退職された時の記念に、診察風景を写真にしたものです。後ろから眺めているのが私です。当時の病院の時代背景が色濃くうかがえる情景です。

No.40 秦 健二
No.40 50数年前、幼稚園時代の貴重な一枚です。右が私で、左の美男子は、川崎隆造君です。幼少時代は大の仲良しでしたが、その後、永らくご無沙汰となってしまいました。それが、この京都南RCで偶然の再会!!
No.41 続木 創
No.41 ヴァイオリニストの夢
学生時代ヴァイオリニストになるのが夢でした。パン屋になってからも四十才ぐらいまでは演奏していましたが今はもう全くダメです。写真は平成4年アルティで開催したリサイタルでの雄姿です。

No.42 福田治夫
No.42 お宮参り
1989年、娘のお宮参りの1コマです。その娘が、今年、母になり、今度は孫のお宮参り。図らずも、家内の祥月命日でした。

No.43 武田隆司
No.43 様々な武道や格闘技を経て2001年に総合格闘技「錬志塾」を開設いたしました。現在は常設道場を構えておりますが、当初は会議室を練習場として使用していました。この写真の日は、大学時代に日本拳法部で共に汗を流した友人3名が各地から集まってくれました。若き日の久保君と田辺君が居るのもポイントです。
No.44 木村光博
No.44 ベトナムに右顔半分が変形して生まれた少女がいることを知り、支援を申し出て、お父さんと日本に来て頂き京大病院で手術をした時の写真。当方の店のチャーハンが大好物。彼女の澄んだ瞳と、背負った宿命の重さに人生観を変えられた出会いでした。


 
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