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7月号表紙 |
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コラム「先人を訪ねて」 |
京都南ロータリークラブに入会した当時、会員の皆様が余りにも立派な会社の社長様方が多く、私の様な個人商店に毛が生えたような会社でもいいのかと少々迷いました。しかし入会後は、会員の皆様が企業の大小等一切関係なく、平等に接していただき今まで感謝の気持ち一杯で過ごして参りました。「先人を訪ねて」と問われても先輩全ての方々を一人々訪ねればいいのですが、全ての会員の皆様に多くのお教えと導きをいただきました。その中で上げさせていただくのでしたら、このお二方を上げさせていただきます。
松風慎一様(株式会社松風陶歯 社長 パスト会長)
松風慎一様はロータリーが歩いている様な方で、先ず私に「ロータリアンたる者日々自分の仕事を天職と思い、その仕事を通じて社会に奉仕をしているんだと自覚しプライドを持ち続けよ」と厳しくお教えいただきました。
SAA、幹事、会長いずれの時も毎例会時に何かと一言二言ご注意を受けました。
次にロータリアンとしては
1.会社の従業員の支持を得よ。
2.家庭に支持を得るように努めよ。
と絶えず教えられ、これがなければロータリーライフは続かないと諭されました。
橋本奈良二様(株式会社傳來工房 会長 パスト会長)
橋本奈良二様は内田昌一君と私の推薦者です。橋本奈良二様は小学校と中学校(旧府立二中)とも先輩で、小さい頃より良く存じていました。入会に際して、ご挨拶に会社にお伺いした時「よおう、小竹君もロータリーに入会するように成ったか」と大変喜んで頂きました。「君の会社は儲けているか」と問われ、これが一番大切なことだと言われ、儲けるためには得意先、仕入先、社会に信頼されなければいけない。儲けているなら立派なロータリアンになれると教えられました。私は「お陰様で」と答えたら「それなら結構」と笑って答えていただき少し安心した事を今でも覚えております。
お二方とも既にお亡くなりになられました。改めて感謝の念と心よりのご冥福をお祈り申し上げます。
第47期会長 小竹 治 |
8月号表紙 |
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コラム「先人を訪ねて」 |
田中 豊大先輩に学ぶ
「先人を訪ねて」のタイトルで寄稿をもとめられました。既に『南の風よ、限りなく』の冊子で、お二人の先輩、橋本奈良二パスト会長と五十嵐猪之助先輩にそれぞれロータリーの実践哲学と理論哲学を親しくお導き頂いた事を紹介させて抱きました。今回は第四期会長であり、我がクラブが最初に選出した田中豊パストガバナーについて語らして頂きます。
私が入会した当時もお元気で、長老として御活躍しておられましたが、例会やフォーラムなどの一言一句は深い含蓄ある厳しいものでした。其の最も強調された事は、他の奉仕団体とロータリーが区別される特徴は「職業奉仕」であると、特に職業奉仕を強調されたことでした。当時は、「一職種一会員制」が守られていた時代で、I serveかWe serveであるべきかが、やかましく論義されていました。
田中ガバナーは終始して、職業奉仕とは各会員一人一人が、各職業の代表者として、天職としての使命感と倫理観を持ち、異業種同士がお互いの職業を尊重し、友愛を深め、切磋琢磨してより高い境地を目ざす場であることが大切である。そしてロータリーで学び実践したことが、各々の職業は無論その他の実践で他人への思いやりと助け合いとなり、自から社会奉仕なっていくのであると語っておられました。
更に驚いたことには、ロータリーの理想を全てにおいて実践していくならば、ロータリーは不要なものになる。ロータリーの目的は、ロータリーを必要としない社会を作る事を目ざすことである。と高邁な理念を抱いておられた事です。Enter to learn(入りて学び)、Go forth to serve(出でて奉仕せよ)、と正しくロータリーは誠の人生を学ぶ集まりである事を示唆されたのでした。一職種一会員制がなくなった現在でも、この職業奉仕の理念は厳しく堅持されていかねばならないと思います。 合掌
備考
田中豊氏との個人的な写真は大先輩なので在りません。記念誌『四十年の歩み』の写真流用しました。
第19期1972年9月15日ロイ・D・ヒックマンRI会長と握手するガバナーノミニーの田中氏・アメリカのヒューストン世界大会の写真です。
会員 那須信孝 |
9月号表紙 |
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コラム「先人を訪ねて」 |
松風慎一32代会長
私のロータリーでの思い出深い先輩は32代会長の松風慎一さんです。22歳年上の先輩と話をさせて頂いたのが32年前のある会合でお声がけ頂いたのが最初で、しかもその話しがロータリーへのお誘いでした。お顔は存じ上げておったのですが話すのは初めてでしたが一番上の兄と同い年だったので比較的気軽にお話しさせて頂きました。
入会に当たってはご自宅に10時にお伺いして、昼食を頂戴して16時頃までロータリーの特訓をいただいた思い出は、私のロータリークラブの基本をなしてる部分です、時代の変化で影が薄くなりましたが松風先輩はロータリー= I serveという方で当時はしばしば I serveとWe serveで議論される機会の多い日々でした。入会は会長方針で夫婦同伴での入会式が行われ妻に出席を依頼して参加したのも今となっては楽しい思い出です。
先輩との思い出は沢山有りますが字数に制限があるので松風先輩には入会当初はよくお叱りをいただきました、会合には先輩より先に少なくても30分前には来いとか、ミスったらニコニコで詫び入れとけとか…数々 楽しい先輩でした。
会員 木下右門 |
10月号表紙 |
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コラム「先人を訪ねて」 |
私のロータリーでの思い出深い先輩は32代会長の松風慎一さんです。22歳年上の先輩と話をさせて頂いたのが32年前のある会合でお声がけ頂いたのが最初で、しかもその話しがロータリーへのお誘いでした。お顔は存じ上げておったのですが話すのは初めてでしたが一番上の兄と同い年だったので比較的気軽にお話しさせて頂きました。
毎週一回暢気に昼食する暇など無い、という厳しい考えの会社に居た為、私のロータリーの入会は現役を離れた退職後になりました。推薦者は大森圭造パスト会長と宮村久治パスト会長(共に故人)でした。大森パスト会長は彦根中学(現 彦根東高校)の学友で共に野球部でした。宮村先生は高名な公認会計士で、日本最大の会計監査法人に成長した「中央監査法人」の創業者で代表社員でした。
入会した時の会長は小竹 治さんでした。入会した年齢が68歳の高齢であった為、ロータリーの理念等について誰からも厳しい指導はされませんでしたが、入会3年未満のロータリーの勉強会には出席するよう厳しく宮村先生に言われ、実践して来ました。 ロータリーには私より年が下でも、立派な先人が沢山居られました。名前の羅列を避けて此処では宮村久治パスト会長、橋本奈良二パスト会長、今西信裕パストガバナーを挙げます。
宮村先生は公認会計士の合否を決定する審査官もされた識者で、又極めて公正な人物でした。私も公私共にお世話になりました。橋本さんは特異な風貌でしたが、該博な知性と素晴らしい美学の持ち主で、暖かい心と友情で接してくれた先人でした。今西さんは優れた人格者で、大変寛容な心を持った素晴らしいロータリアンでありました。ガバナーとしても今西さんは文字通りロータリーに身を捧げた方です。
最後に最近何代かの会長の素晴らしいリーダーシップと、造詣の深さから出る凄い話術に感銘を受けて居ます。立派なロータリアンを輩出出来るクラブである事を大変誇りに思っています。
会員 上西阿沙 |
11月号表紙 |
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コラム「先人を訪ねて」 |
私にとっての先人 私が京都南ロータリークラブに入会させていただいたのは1984年2月2日でした。
当年度の会長は故 津田幸彦さんでした。その年度に入会した同期生は現在5名在籍しております。津田さんには我々にロータリークラブの意義やなすべき奉仕活動について熱く語られ我々の原点となっております。津田さんは毎月開催される朱雀会に出席され常に愛用の「サカズキ」を持参されていたことを今も鮮明に記憶に残っております。
次年度の会長となられた故 松風愼一さんも多面的に多くの御指導を受けました。常に厳しい御指導のほかに、設立当初に存在していた野球同好会を再建されました。私も参加し毎年のように甲子園に出場しました。今はOBとして過去を振り返りながら後援会の一員として参加しております。
松風さんは朱雀会の歴史を語られ、日本酒を楽しむ会であり、ある時若手がビールを注文したことを厳しくたしなめられました。
今年でロータリークラブ入会34年目を迎えましたが今日ロータリークラブに残っているのはお二人の先人あってのことと感謝しております。会員 小西清茂
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第31期
津田幸彦会長 |
第32期
松風愼一会長 |
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12月号表紙 |
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コラム「先人を訪ねて」 |
私が関大(法学部・相撲部)を卒業して、親父の経営する中央市場の果実卸売会社「中徳」に入り、商売をやっていた時、当時「京果」の社長だった内田昌一パスト会長から、「京都南ロータリークラブ」に入れとお声がかかったけれど、私は毎日市場でステテコ、腹巻、前掛け姿で仕事をしていた、がらっぱちな男なので、「ロータリークラブなんて、雲の上の人の集まりなので無理です。」とお断りしたのですが、「まあ徳さん俺の言うことを聞け!」と言われて入会させて頂いたのが始まりです。
(内田昌一パスト会長)
私が、故 永末英一民社党委員長に市会議員をやれと追いかけられて迷っていた時、中央市場の事や地域の事を考えたら、市会議員として頑張ってくれ、私が後ろ盾になってやろうと、後援会をつくっていただき、8期32年、京都市会の最年長になるまでずっと応援して下さいました。結果、中央市場の仕事、七条通を中心とした色々なまちづくり、そして、何よりも梅小路の京都水族館、それに続く鉄道博物館、JR梅小路駅、京都芸大の崇仁地域への移転、万華鏡ミュージアム、岡崎疏水の噴水、大阪ガス天然ガソリンスタンドの設置等々、その他多くの実績を残すことが出来たのは、数多くの人との交流が大いに広まり、より多くの人間関係が出来たこと、この基本は、京都南ロータリークラブに入れて頂いた結果だと思っています。
(大塚經雄パスト会長)
ロータリークラブは堅苦しいところだと思っていた私でしたが、入会してすぐに突然お声をかけて頂き、それからというもの常に「徳ちゃん!!徳ちゃん!!」と大いに遊んで頂きながら人と接する時の「本音・本気・自然体」を教えて頂きました。私が市会議員になると相談した時も、「そんなあほな事やめとけ!!商売も何もかも無茶苦茶になるぞ!!」と本気で止めてくださったのですが、「もう引っ込みがつかずやります」と言ったら、「分かった、俺にまかせておけ」と後援会づくりをしてくださって、8期32年間、ずっと後ろ盾になって頂き、多くの実績を残すことが出来ました。
※私の信条・行き方(京都南ロータリークラブで学んだ生き方)
(私の信条・生き方)
・義理、人情、浪花節は俺に任せとけ。・本気でものを云い、本気で行動する、そして常に自然体。・理屈より常に体で行動する。・中央市場出身です。ネクタイは苦手ですが、常に心にしています。・全ての方々と平等の心(しかし上の人は上)。・年が行く程、今日より明日を目指し、前向きに何かを追いかけ、心身共にオシャレも追いかけよう。・金より人が宝。会員 今枝徳蔵
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1月号表紙 |
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コラム「先人を訪ねて」 |
入社以来、私は社長の秘書的な仕事もしており、会社の宴会の時はいつもメインゲストに京都中央信用金庫の小嶋常三郎理事長が居られたが、小嶋さんの勧めで京都南ロータリークラブに35歳の若さで入会しました。
ある日、会社の宴会に出席していましたら、小嶋さんが、「今日は京都南ロータリークラブのフォーラムがあるので行きなさい。」と云われ、社長に伝えたら、仕方なく「行って来い」と云われ慌てて行った事がありました。
入会時に小嶋さんに厳しく云われたお陰で、50年間100%出席する事が出来ました。勿論、100%出席出来たのはその間、長患いもしなかった事もあります。
ロータリークラブに入会したからには、出席することは当たり前ですが、入会時に小嶋さんに厳しく仕込まれたからだと思っています。
入会は、昭和41年1月6日、同日入会したのは第一工業製薬の圓城佳逸さん、伏見稲荷大社の宮司だった守屋春光さん、京都中央信用金庫専務理事の西村清次さん、七条壬生辺りの大地主榎 清次郎さんと私の5人でした。
【一言】
例会場を丸物百貨店から変わる時、当時新しく出来たグランドホテル(現在のリーガロイヤルホテル京都)へ変わろうと云われたのは当時の歴代会長のうち小嶋さんただ一人だったと云われている。会員 内田昌一
写真 昭和34年(1959年)小嶋常三郎と台湾の鳥来を訪問。高砂族の民族衣装を着て撮影。(右から3人目が小嶋氏、右から4人目が京果初代社長の内田源三郎氏。一番右が私) |
2月号表紙 |
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コラム「先人を訪ねて」 |
ロータリーライフを通じて知り合った方の中で、深く印象を受けたのが、南隆明さんです。
20年程前に、京都南ロータリークラブの先輩である木部さんのご紹介を受けてお会いしたのが、南さんでした。大阪グランビアホテル上階にある格式高い喫茶店で、お話をしたことがまるで昨日のように感じられます。その後しばらくしてから、南さんは京都南ロータリークラブに入会されました。
南方会というグループがあります。京都は盆地であり、まわりが山に囲まれており、わずかに南の方だけが奈良・大阪に開かれています。クラブのメンバーの自宅あるいは会社の位置が、京都市内の南側にある方が多いと思われます。このグループは、これからの時代、京都駅から南方に注目されるであろうとしてこの名前が付けられました。南さんは退会された後も、この南方会に所属をされています。
たとえクラブを退会されても、メンバーと交流をする場を持つことが出来るのがこの南方会の特色の一つと言えます。また、もう一つの特色として、「一風変わった人を大切に」をモットーに、ダイバーシティ(多様性)を願って活動を続けております。会員 庄司惠一
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3月号表紙 |
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コラム「先人を訪ねて」 |
私を京都南ロータリークラブに入会をすゝめてくださったのは佐野友泰パスト会長です。
入会する数年前より今は退会された柳本茂温さん、松風定二さん(二人が私の推薦者)、そして佐野友泰さん、京都洛中ロータリークラブの藤堂稔之さん、他には今は京都を代表する日本電産の永守重信さん(当時はまだ上場前)等で「21世紀の経営を考える会の勉強会」に入会していたのが縁でした。
当時はロータリークラブの入会基準のテリトリーも大変厳しい時代でした。入会時の会長は津田幸彦さん。幹事は堀 博久さん(共に故人)でした。入会に先立ちインフォメーションを受けましたが当時は出席を特に厳しく云われた時代で、いきなり堀幹事より「これから毎週必ず出席できるのか、出来ないのであれば入会する必要はないので、このまま帰ってください」と厳しく云われ頭にカチンと来た事を覚えています。しかし乍ら入会して順調に出席して一年位経過した頃には堀幹事も私を「山ちゃん、山ちゃん」と云って大変親しくお付合いしていただきました。以後、歴代のパスト会長、諸先輩の方々には色々と示唆に富んだアドバイスを多々いただきご指導いただいたお陰様で、この30年余 充実した人生が送れて来たと確信しています。京都南ロータリークラブに入会させてもらって本当に良かったと思う毎日です。会員 山口 巖
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4月号表紙 |
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コラム「先人を訪ねて」 |
西村二郎PDGを訪ねて
2001-’02年度当時の我がクラブは、歴史と伝統と風格を兼ね備え、地区でも存在感のあるクラブに成長していましたが、こと自クラブで地区ガバナーを輩出した実績は、田中豊会員を1972-’73年度に輩出して以来約30年間皆無で、諸事情を整え地区に貢献することが叶わなかったようです。この間「地区で一二を争う大クラブなら、ガバナーを輩出し地区運営にリーダーシップを発揮すべき…。」と、しばしば地区内でお声があったように聞き及びます。
2001年の事、我がクラブに待ちに待った好機到来。西村二郎会員には、「ガバナーとして地区運営に貢献すること、即ちクラブ奉仕に通ずる…。」との持論を以て2001-’02年度の地区ガバナーにご就任賜ったのでした。
西村二郎PDGは情熱的で謹厳実直なお人柄で何事にも是々非々で取り組まれ、地区に数多くの功績を残されました。また、おかげさまで我がクラブと地区との風通しは格段に良くなり、地区に残された功績に対する有形無形の恩賞を、我がクラブは今もなお受け継がせて頂いているように存じます。
「二郎さん!」とお呼びすることをお許しいただいた在りし日のお姿を偲びつつ…。
「二郎さん。ありがとう…!」 合掌 (写真:当時:WHO西太平洋地域事務局長 尾身茂氏ご夫妻をお招きしての懇親会)第54期会長 西村信行
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5月号表紙 |
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コラム「先人を訪ねて」 |
私のロータリーライフ30年の中で、幹事としてお仕えした2000〜2001年会長遠藤賢一氏は、私にロータリーの素晴らしさと温かさを教えていただいた恩師です。「誇りと気品をロータリーへ」というテーマはダンディな小児科医の遠藤先生に相応しいものであり、今でも好きな言葉です。
新しい世紀が始まる時、遠藤会長は京都第一赤十字病院に、入院している子供たちの為にキッズルームの寄贈を提案されました。長期入院を余儀なくされる子供たちに癒しの場を与えたい、そして、21世紀に活躍してほしいという湧き出る想いを、ロータリーを通して実現し、会員にも病院の実情を知ってもらいたいと願われたものです。そして完成したのが「りんごの森」という素晴らしいプレイルームでした。ローターアクトのメンバーもその部屋で子供たちとクリスマス会を行いました。さらに、台北南RC、青森RC、小田原RCからも、おもちゃや絵本、りんごなどが贈られ、ロータリーの友情が花開きました。入院中の子供たちも大喜びでした。
プレイルームの贈呈式では、ダンディな会長の目に涙が光るのを私は見逃しませんでした。それは会長御自身の職業奉仕とクラブの社会奉仕の見事に一致した姿だったと思います。この事業は京都南RCにとって初の「意義ある業績賞」を戴いたのです。
それから12年後の2012年、私が会長を務めさせていただいた年、奇しくも、これと全く同じ事業をさせて頂く機会に恵まれました。建て替えられた小児科病棟にプレイルーム「新りんごの森」が再現できたことは、不思議なご縁を感じます。RACのメンバーも、子供たちと万華鏡づくりを楽しみました。この一連の事業は「ガバナー賞」を頂くことが出来ました。
そしてプレイルームに貼られたプレートには、遠藤先生の御名前も刻んでいただき、私を育んでいただいた御礼ができたと喜んでいます。ロータリーの奉仕の輪の大きさに驚くと共に、感謝の念で一杯です。第60期会長 津田純一
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6月号表紙 |
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コラム「先人を訪ねて」 |
会長 圓城佳逸さん、幹事 向井博一と決まって二人が近づき小生会長のお人柄にふれる機会が多くなりました。
今日はその一つ二つを振り返ってみます。当時圓城会長は第一工業の社長並びに商工会議所工業会等の要職にあり多忙な方でした。
向井君「小生いろいろ仕事がありロータリーのみに没頭するわけには行かぬ。その点、君幹事として十二分に仕事をしてくれ」とこれは大変なことになったと思った。
次に「ところで責任問題が起きた時は会長小生がとる、君は幹事の仕事をしっかりとやってくれ」と長が部下に対する温かい思いやりのお気持ちでした。
次はある席で圓城会長の横に小生席をとり酒をすすめる事になり好きなものとして快く召し上がっていましたが、その内にかなり酔って見えた様子、当日はお宅までお送りすることになりました。次の機会に「先日は快く召し上がっていましたね」と言いますと、「向井君酔ったふりをするのもむずかしいね」となにげなく仰いました。負けず嫌いな性格そのものです。
今日はこの辺りでまたの機会に。第39期会長 向井博一
第23期 圓城佳逸会長 |
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