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組織
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近隣クラブ例会場一覧
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行事予定・行事報告

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月報表紙絵紹介
2002年7月 アルプスの氷河 木村 光会員
 この写真は、1990年8月24日にニネ博士ご夫妻の案内で、標高3807mのLa Rateauに登った時のものである。天気は快晴、眼下に氷河が見られ、マウンテンゴートの群れが氷り間から覗く草芽を食べていた。山の中腹にあるレストラン・パノラマで、Terrine d'oieとCanard aux onions,それに赤ワインGamay de Savoie(Chautagne)をご馳走になった。
 ニネさんはパリジャンだが、ローンプーラン社を引退後、夫人とフランス中を旅して、この付近のBourg D'oiseauを終生の地に選んだという。泊まりに来るようにというご招待を何度も受けながら、この夏、筆者はブルゴーニュからリオンへワインと料理の旅をした。パスツールの故郷ドールとアルボネも訪ねた。ところが、ストラスブルグの国際会議で突然、本部から呼び出された。スタッフはニネさんの息のかかった人が多く、私のために全てがアレンジされていた。
 Bourg D'oiseauはグルノーブルから車で約1時間、四方を3000m級のアルプスで囲まれた山間の村である。「こちらの接し方によりますよ」というニネさんは村の誰とも親しかった。庭の芝生で話をしていると夕陽に照らされた山肌が刻々と色を変えた。ニネさんからは去年もクリスマスカードを頂いた。81歳になられたと思うがお元気のようである。
2002年8月 ギャル御輿 木村 勇会員
 日本の祭りは、四季のうつろいと風土のなかで生まれ育って来た。来るべき農作を祈り咲く花の美しさを讃えた春の祭。疫病神を納鎮め先祖を祭る夏祭り。秋には収穫を悦び神に感謝する祭り。冬には一陽来復の春を願う祭等さまざまな祭は今も確実に生き続けている。
 そんな祭にはなくてはならない御輿、神様のお乗りになる物で四角、六角、八角などがあり屋根の上には鳳凰とか挿花をのせ、台には日本の担ぎ棒がつけられている。京都では平安時代になって昼祭りを主にやる様になり氏子が御輿を担ぎ見せる様になる。時には荒れて軒や桁が一本位折れたり、右往左往して進まぬ様な事がある。これらすべて御輿のせいにした。荒れる程、農作が期待されたと云う。
 そんな勇壮な御輿も今は車に乗って町を走る様な時代。それを見兼ねてか、好奇心からか、ギャルがパワーを発揮しようと各地で、ギャル御輿が見られる様になる。この写真は毎年10月に催される大阪御堂筋パレードの一枚で若さと熱気溢れる勇姿に、ついシャッターを切った。
2002年9月 コアラと遊ぶ親子 内田昌一会員
 京都市中央卸売市場のオーストラリア・ニュージーランド視察団の団長として1982年(昭和57年)11月に行った時の多くの写真の一枚です。
 たしかシドニー郊外のコアラパークであったと思います。何か被写体がないかとキョロキョロしていたら、目に写った光景で、思わずシャッターを切りました。
 こわごわコアラに触れている子供の目、心からうれしそうな母親の手が印象的でした。
 この旅行を終え、帰国したのが11月19日。その二日後が、私達夫婦の結婚記念日で、その日アメリカからのご夫婦を京都市内、特に高山寺へ案内して、楽しく語り合っていましたが、その翌日22日妻は不帰の人となりました。忘れ得ぬ旅行でありました。
2002年10月 かかし 木村 勇会員
 案山子とは、においをかがせるものの意「(臭)かがし」から来た言葉で鳥獣に荒らされるのを防ぐため、それらの嫌うにおいを出して近付けない様にしたものらしく昔は獣の肉を焼いて串にさしたり、髪の毛やボロ布など焼いたものを竹にぶらさげ田畑に置いてあったそうだ。その後、竹や藁で作った人形に弓矢を持たせたり笠や蓑を着せ人がいる様に見せ作物を荒す鳥獣を追払い豊作を願ったのだ。その案山子も近年は爆竹、プラスチック製烏の死骸や風船状に赤黄黒色で目玉に見せたもの等が出回り人形の案山子は姿を消しつつある。この写真は以前仕事で五条桂川西岸を運転中橋下にコスモス畑があり多くの案山子が表情豊かに立ち並んでいたのでシャッターを切った。
2002年11月 モンゴルのゲル 木村 光会員
 写真は、1996年6月にアメリカ微生物学会から専門民間大使としてモンゴルを訪問した時のものである。この円形テントは「ゲル」といわれ、中国人はパオ(包)と呼ぶ。大木がないこの地方では、細い木を何本も斜めに組んで、全体の重さを分散している。組み立ても解体も約1時間で可能である。周囲を羊などの毛皮で覆っているので、−30度の寒さも防げる。
 実際、ゲルに泊まってみると夜中もそれほど寒くない。ゲルの中央の天井はトーノ(天窓)と呼ばれ、明り取り、煙突、温度調節の役目をする。下部にある入り口をふさいでいる限り、空気の流れがないので、ゲル内の温度は下がらない。ゲルは大小あって、30人位の食事も可能である。一緒に泊まったアメリカ人の中にイスラム教徒がいて、寝る前にメッカに向かってお祈りをしていた。
 ウランバートルは標高1500メートルの世界的な避暑地である。そこにはチャガン・トルゴイ(白い頭)という白い薬草が茂る原生花園があるが、実はこれがスイスのエーデルワイスのことだという。チャガンというのが白いという意味で、乳製品のことをチャガン・ティー(白い食べ物)という。モンゴルには50種類ぐらいの乳製品がある。日本人は何かといえばヨーロッパにあこがれるが、同じものが近くに存在するのである。奈良時代に珍重された、醍醐、酪、酥(そ)などはこの種の乳製品である。これに対して、“赤い食品”というのは肉を中心とした食品である。白い食品は家畜を「生きた保存庫」として使うことで得られるが、赤い食品は家畜そのものを殺してしまわなければ得られない。血を大地に流さない屠殺「腹割き法」で作った血肉が美味い。
2002年12月 カンボジアアンコールトム 東洋のモナリザ 西村七兵衛会員
 憧れの遺跡・アンコール・ワットを初めて訪れたのは、1988年2月であった。当時は直行便がなく、タイとベトナムに各一泊し、そこからカンボジアのシュムリアップ空港に早朝に到着し、そのまま飛行機を待たせておいて、夜には離陸するというあわただしい観光だった。アンコール・トムには地雷のため入れず、残念な思いで帰国した
 今回は13年ぶりの訪問である。バンコックでの乗り換え2時間30分を含めても10時間で空港に着いた。まわりは大変な賑わいで、ホテルとみやげ物屋であふれている。
 さっそくアンコール・トムに向かう。創建された当時は仏教寺院で五千人の僧侶がいたと伝えられるが、後にヒンドゥ教寺院に改修され、そのときに仏教色の強い像は削り取られたという。
 「東洋のモナリザ」とも呼ばれるデバダー像(写真)は、「女の砦」を意味するバンテアイ・スレイにある。967年建築と伝えられるこの小寺院は、壁面一面にヒンドゥ神話が描かれており、アンコール遺跡中もっとも洗練された優美な姿を残している。作家のアンドレ・マルローがこれらの像を盗掘し、国外に持ち出そうとして逮捕され、その顛末を「王道」という小説にしたという逸話付きの魅力的な像である。
2003年1月 おまいり待ち 齊木俊作会員
 子供の頃と云っても終戦から何年か経った頃、京都市内でも店の前とか道端に製造途中の品物が並べられているのを見かけました。
 これは市内、特に下京、東山区は職人の町と云われ伝統産業をはじめ物づくりに従事する人々が多く住んでいたからだと思われます。工場などで大量に製造するのではなく、店、住まい、作業場が同居する家で作るので、製作途中に店の表とか道端に干すしかなかったようです。
 バブル期を経て今ではこう云った光景も殆ど見ることが出来なくなりました。
 この提灯と傘を扱う店では現在でもここで仕事をやっているようで、時々表に作りかけの提灯がぶら下がり、乾かしています。
 恐らく寺院の注文を受けて法要などで使われるものと思われます。法要の時に新しい提灯が用意され、寺院の門の両側につるされて、その間を通って多くの人々がおまいりに来られることでしょう。仕上がりを待ち、その日が来るのをじっと待つ佇まいに見えました。
 今時、一寸珍らしい光景なのでシャッターを切りました。
2003年2月 シルクロード クチャの子供 西村七兵衛会員
 2000年6月、夢にまで見た「シルクロード」を訪れた。私にとってはブッダロードであり「仏の来た道」である。北京より西へ4000キロ、標高4000メートルの天山山脈を越え、4時間で新彊ウイグル自治区の主部に着いた。人口130万人、自治区全体では一千万人で13の少数民族が住んでいる。町から少し出ると一面が砂漠。乗り物はロバである。
 ウルムチからトルファンへ向かう途中のアイティン湖は、標高マイナス154メートルで、世界で二番目の低地である。塩に覆われた湖は水際がわからず、私はずるずると湖にはまってしまった、なんとか命拾いをしたが、陸に上がるとすぐにぱりぱりに乾燥し、塩が固まって歩けないほどであった。
 1893年、スウェーデンのヘデインに続き、イギリスのスタイン、ドイツのルコック、1902年、我が国の大谷探検隊がこの地区に踏み込んだ。この地クチャは七世紀に玄奘三蔵法師が求法の旅をして訪れたときは、西域随一のオアシス都市として栄えていた。私は大谷探検隊の持ち帰った資料の研究書を続けて出版している。特に現東京国立博物館に保存されている「舎利容器」のあった現場を訪れた時は、感動して一歩も動けなかった。またこのあたりの人々は、ヨーロッパ人と東洋人の美しさを持ち、特に子供と女性に特別な魅力を感じた。
2003年3月 舞妓 西村清次会員
 此の舞妓は多分宮川町の方と思います。或る日何の気も無く二条城に行った折、舞妓の撮影会が有る由の標示がなされていました。そこで城北の庭園に向かって歩く程に縄紐があり係員から此処からは撮影料をと云う事で金1千円也を支払って入場、舞妓の来るのを待つ事数分やがて三人が参りました。その内の一人が表紙の女性で名前も解りません。誠に拙い写真で恥ずかしい次第ですが会員の西村七兵衛さんから何か出せとの事で、思い切って出しました。私は本来丈の高い美人が好きですが仲々自分の思う様な美女に当たりません。相当以前祇園で素敵な舞妓に会った折に撮った写真は何処へ仕舞い込んだか解らず残念乍ら表紙の様なものになりました。
 舞妓は誰が何と言おうと京都が一番です。偶には観光用として高台寺とか円山に偽の舞妓姿の女性が居りますが、本物か否か直ぐに解ります。
 私は舞妓に限らず花街の女性は私の第二の宣伝員と思って付き合っております。常に丁重に呼ぶ時も「お嬢」とか「お嬢ちゃん」とか云って絶対に「おい」とは申しません。時々お兄さん達の中で「おいおい」と呼んでいられるのを聞きますが名前で呼ぶか又は「お姉さん」等々で申された方が良いのでは無いかと思っております。
2003年4月 どうぞお入りください 内田昌一会員
 1993年11月、当時の京都商工会議所会頭(故)塚本幸一氏を団長として、ベトナム視察団が編成され、私も参加しました。折角行くのなら、私はバナナ産地の状況を視察すると言ったら、西利の平井義久氏も同行される事になり、それならばと取引先に写真のモデルを頼みましたが、その当時、モデルなんてとても無理であり、取引先の好意で事務員数人がモデルをしてくれました。(勿論ベトナムの民族衣裳のアオザイ姿で)素人であるが、なかなかの素晴らしいモデルぶりでした。
 2日にわたってバナナ畑や景色の良い所へ行って写しましたが、私にとっては彼女達の帽子がアンバランスに写りました。(ベトナムは長い間フランス領土だった為か、帽子とフランスパンが印象的でした。)
 平井氏はコンタックスのRTS IIIを2台と、各種レンズなど携行していたので、汗をかき乍ら写しておられたが、私は昔買った京セラの230型のカメラと210mmの望遠レンズだけで楽しみました。
 田舎の藁葺きの小屋(住居)の前で客を迎える想定で写しました。尚、ハノイで、大広場を自転車に乗った白のアオザイ姿のたくさんの女子学生が走ってきた時、シャッターを切るのも忘れ見惚れておった事を思い出します。
2003年5月 噴水 齋木俊作会員
 東本願寺の前で烏丸通がふくらみ、その真中の公園、の間にこの噴水はあります。
 他所で見かける噴水といえば、水流も勢い良く、本数も多く、時には色も変化し、BGMまで聞こえてくるものもあります。
 最近では東本願寺にお参りに来られる人々も、観光バスや車の事が多く、直接門の側で乗り降りします。その反対側のこの噴水は気づかれない事が多いのではないかと思います。
 流石に寺院の前にあるだけあってこの噴水は、蓮の形でおとなしく、上品に、静かに毎日水を流し続けています。
 近頃、京都も景観問題で多くの人から京都らしくなくなり、醜悪な建物等が多いと云われています。しかし表通りはともかくとして、一歩裏通りに入ると未だ昔通りの建物やろーじも多く見られます。都心の人口は減ったとは云え、そこそこの人は生活しています。徒歩で街中を廻って貰えば京都らしさを味わって貰えると思います。
 この頃は時間とお金をかけて撮影に行くこともままならず、近くの風景の中でお茶をにごしています。
 拙い写真を二回もお使いいただき有り難うございました。
2003年6月 ニースの海辺 稲盛豊実会員御令室 稲盛恵美子
 3月の終わり、日本でも、もう桜の蕾もふくらんで来る頃、パリの街もマロニエはまだ冬枯れのままであるが日本よりひと足先に八重桜があちこちに咲き始め、れんぎょうや雪柳など花開いてくる。その年はどんよりとした空が毎日続き、セーヌ川も、たいした大降りの雨でもないのに水量が増し、観光船(バトウ・ムッシュ)も連日ストップして寒ささえ感じる日々であった。パリ在住の娘と共に、青い海と空が見たい…と思い、雪で真っ白なヨーロッパアルプスの南に連なる山々を一時間余り南へ飛び、ニースまで行くと、そこには、やはり、果てしなく続く真っ青な空と水平線、いわゆるコートダジュールと呼ばれる海辺があった。その海辺には人々が憩い、夏のヴァカンスシーズンとは違う静寂も有り、心の洗われる思いのする南仏、ニースの春。カンヌ、エズ村、モナコと近辺には、世界中の人々に慕われる街も多く、海辺を走る電車、少し山沿いを走るバスで往き来すると、途中の小さな街々、美しい海岸線が夢のように、目の前を通りすぎて行く。