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表紙絵

6月表紙 田植祭

6月10日、伏見稲荷大社のご神前に日々供饌される、ご料米の稲穂を新田へ植えるお祭りです。本殿の祭典に引きつづき、稲荷山の麓にある神田において、平安朝のかざみ装束を身につけた神楽女が雅やかな「田舞」を奉納する中、茜だすきにすげ笠姿の早乙女ら30名程がおごそかに田植えを行い、今年の五穀豊穣を祈り

 

【→本年度月報表紙】


週報表紙絵

本年度の週報の表紙には「京都から始まった世界あるいは日本で最初のモノやコト」をイラストや写真で紹介させていただきます。

【No.1 - No.12】 【No.13 - No.24】 【No.25 - No.36】 【No.37 - No.46】

No.37
琵琶湖疎水事業
 大規模な疎水事業としては日本初ではないが、国家的土木事業が外国人技師に委ねられていた時代にあって、全て日本人が手がけた、最初の近代的な土木工事事業です。明治18年(1885年)6月着工、明治23年(1890年)4月完成。この工事に携わった人は、延べ400万人といわれています。
No.38
インクライン
 琵琶湖疎水工事の一環として疎水が完成した翌年の1891年に運転開始しました。疎水の水で発電された電気を動力源として利用し、インクラインの両端に船溜を設置して、ここでを荷物ごと船を船受枠(船を乗せる台車)に積んで坂を上下させる目的で建設されました。琵琶湖疎水のインクラインは、日本で初めてインクライン方式を採用した疎水です。
No.39
駅伝
 大正6年(1917年)4月27日「東海道駅伝徒歩競争」が日本で最初の駅伝だそうです。コースは京都三条大橋〜東京上野不忍池までの全長514km。三条大橋がスタートだったそうです。
No.40
ちまき
 承平年間(931〜938)に編纂された『倭名類聚鈔』には「和名知萬木」という名で項目があり、もち米を植物の葉で包み、これを灰汁で煮込むという製法が載せられている。元々は灰汁の持つ殺菌力や防腐性を用いた保存食であった。その後、各地で改良や簡略化が行われ、特に京では中に餡を包み込むなど和菓子化していった。
No.41
日本初の小学校
 明治2年(1869年)5月21日近代小学校として日本初の開校式が、「上京二十七番組小学校(御池校)」で行われました。町衆による小学校創設構想に端を発したもので、地域が一丸となって学校の建設が進められたそうです。こうして、全64の小学校は、国が学制を定める3年も前に、その精神を先取りして開校しました。
No.42
日本初の幼稚園
 明治8年(1875年)12月日本最初の小学校である柳池小学校に設置された「幼稚遊嬉場(ようちゆうぎじょう)」が日本で最初の幼稚園だったそうです。明治新政府が官立の幼稚園として、東京女子師範学校付属幼稚園を開設したのは明治九年(1876年)11月なので、政府の設置より1年、京都の方が早かったようです。
No.43
日本初の気球
 明治10年(1877年)12月6日 島津源蔵氏により仙胴御所内の広場で日本初の軽気球があげられました。その後、1969年9月28日、京都の学生5名と北海道大学探検部の共同作業によって日本初の熱気球飛行が成功しました。
No.44
玉の輿
 京都西陣の八百屋の娘お玉が、美人のおかげで徳川三代将軍家光に見初められて側室となり、とうとう五代将軍綱吉の母「桂昌院」(1624〜1705)となりました。お玉さんが立派な輿に乗って将軍のもとへお輿入れをしたのが「玉の輿」第一号だといわれています。
No.45
プロ棋士
 プロ棋士第一号は、京都・寂光寺の僧、日海上人こと本因坊算砂(1559〜1623)豊臣秀吉は、御前試合の勝者である京都・寂光寺の僧、日海上人こと本因坊算砂(1559〜1623)に武士と同じように禄を与えました。これをもってプロ棋士第一号をいわれています。
No.46
ファサード保存
 明治35年「京都郵便電信局」として誕生した、「中京郵便局」はルネサンス様式の有名な建物です。昭和48年(1973年)全面解体撤去し、新局舎を建築する計画が発表されたとこと、京都ばかりか全国から保存を要望する声があがった。その結果、「ファサード保存」という、日本で最初の試みがなされました。

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