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■父の愛した能面(5月6日 週報No.40)
私の父は戦時中、灯火管制下電燈に黒いフードを掛けたなかで観世流家元(当時はそう言っていました)先代大江又三郎先生より謡曲の手ほどきを受けていました。時代が時代だけに素人のお弟子さんも少なく、また懇切なるご指導があったせいか父は「病膏盲」の域に入り、私など子供は大いに迷惑したものでございました。
その頃、戦後だった記憶がありますが、能面師「長沢氏春」氏がご近所にお住まいでした。氏の知遇を得た父はその作品を数点所持していましたが、後年(昭和54年)人間国宝に類する無形文化財選定保存技術保持者となられるとは夢にも思っていなかったと思います。
写真の2面は氏の30代後半の作で、特に父が愛蔵し、その面をつけて能舞台に上がったこともあったくらいでした。若女と深井ですが慧眼の各位には説明の要もありますまい。能面は観る角度によって表情が変わると申しますがいかがなものでしょうか。
阿原道正
■Bismarck石膏(5月13日 週報No.41)
これは、1890年代〜の大変高価な大理石に刻まれた洋菓子用の型のいくつかである。
ドイツ統一の立役者となる有名な政治家オットー・フォン・ビスマルクの命により、プロイセンで制作され、イギリスのヴィクトリア女王らを迎えての外交の宴会で洋菓子の飾りとして、さかんに持てはやされた、いわばハレの宴席の添え物の型である。
小社を立ち上げた亡父は、会社に余裕の出来た40歳頃から、修行をしていた親方のコレクションを譲り受け、現在、大小合わせて、35個の型を大事に小社に保管させて頂いている。
吉澤康雄
■看板(5月20日 週報No.42)
来年、創業400年を迎えます。「法藏館」という屋号は、明治18年(1883)の刊記が初見で、泉涌寺長老、佐伯旭雅先生に名付けていただいた様です。字もその時のものと思います。先生の著書「冠導阿毘達磨倶舎論」全30巻の木版は、社内三土蔵の一つ木版蔵に今も保存されており、二十数年前まで刷り師が手刷りして売っていました。ということは、約百年間これを越えた研究がなかったということでしょうか。
また、同著者が高野山から譲り受けた「倶舎論光宝二記」全60巻の板木を、昭和8年に法隆寺に志納したという記録を見つけ、すぐ寺に問い合わせたところ即日「預かっています」との返事が返ってきました。一つの看板からこんな歴史を見つけ出す機会を得たことを嬉しく思います。
西村七兵衛
■特性チロリ(6月3日 週報No.43)
約13年前に飲食店を先斗町で始めたのですが、何か他店と違う物、オリジナルな物と思い、特製の熱燗用チロリを作りました。金物屋さんに相談し金型から作りました。
蓋を開けてお湯をはり、筒の中に焼いた炭を入れます。お酒が冷めないようになってます。
時々お客様が譲って欲しいと言われますが、お断りしてます。長年使っていますが、時々磨いてやるとピカピカになって喜んでいる様に見えます。
伴 克亘
■そろばん(6月10日 週報No.44)
会社の机の引出しを開けると「そろばん」が入っています。私はどちらかと言うとデジタル派なのですが、銀行に就職した頃からこの「そろばん」を愛用しています。私が就職した頃は、そろばんの技能が必須で、いつも使用していました。電子化が進み、いつの頃からか電卓に替わり、今では見取り算の練習も電卓を使用し、そろばんの弾き方を知らない行員も少なくないと聞きます。今の営業室は機器の電子音ばかり。若い頃の営業室に響いていたそろばんの音を、大変懐かしく感じています。
安村幸駿
■大安寺長老河野清晃氏書『夢』(6月17日 週報No.45)
今から18年前、京都青年会議所を卒業した御祝に、尊敬する先輩からご恵贈賜った書です。当時は満40歳を迎えたばかりで、誰よりも出世をして仕事関係や諸先輩から流石と言われたいという気負いが人一倍ありました。仕事への意欲でギラギラしていた頃です。
大安寺というのは、奈良にある学僧養成の寺で、聖徳太子が道場を創建したことに始まり、平城京に移って大安寺となりました。揮毫して頂いた河野清晃長老は戦前戦後の厳しい時代に大安寺の復興に尽力し、若い人に国際感覚を持つよう、「奈良日独協会」を発足させる等、教育熱心な方です。
この書を見るたびに、事業欲・名誉欲・金銭欲を満たすことが目的ではなく、自分が描く『夢』に向かって全身全霊を傾注させることに人生の意義があることを教えられます。人生の原点の書として飾っています。
長谷川佐喜男
■軍隊手牒(6月24日 週報No.46)
20才代の青春時代を殆ど軍隊で過ごした私にとって此の手牒は戦友であり、守り扎そのものです。昭和9年4月旧満州旅順で軍属として奉職、10年大連へ、12年朝鮮平壌の民間会社へ勤め、13年補充兵として應召衛生兵。此の時から手牒を肌身離さず携帯しています。
北支の各地で激戦或いは掃討作戦等数多く遭遇し乍ら生死を潜り抜けて参りました。今日無事に生き長らえることが出来唯々神佛大自然に感謝あるのみ。
お陰で体質も変り物事に余り怖いと言うことが感じられなくなりました。
西村清次(名誉会員)
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